ーーーサラリーマンから料理人に転向したきっかけや経緯は?
成り行きですね(笑)。高校時代から地元である品川の小さい精肉店でアルバイトをしていて、肉の卸業者の方と仲が良かったんです。大学を卒業後、叔父の会社に就職してから3〜4年した頃に、その方から焼肉屋をやるから一緒にやらないか?という話をいただいたことが始まりです。
「店長として全部やってくれ」と言われ、面白そうだなと思った反面、僕は料理をほとんどやったことがなかったので、「急にそんなことを言われても」と思ったんです。でも肉を切って皿に並べてタレをかけるだけだから大丈夫だと言われて、ならばやってみるか、といった感じでしたね。
ですが、提示された立地は用賀と上野毛の間に位置した住宅街で、飲食店もあまりなく「こんな場所でお店ができるの?」と不安がありました。そんなに飲食は簡単なものでは無いだろうと思っていましたし、料理嫌いではなかったのですが、生の皮付きタンなんて見たことも触ったこともなかったんです。
ーーーそうした不安もある中で、開業は無事に迎えられたわけですね?
当時、オーナーが中目黒の【びーふてい】という人気店に肉を卸していて、店が完成する2〜3週間くらい前に仕事を見てくるよう提案されたんです。2週間ほど行かせていただいたのですが、あまりの仕事の早さにただただ圧倒されました。
ただ、昔の焼肉屋というとカルビやロースなど提供部位は限られていて、カルビ用にはバラ肉を、ロース用にはこの部位、というようにパーツで仕入れていたので、自分で店をやる時には仕込みに関して戸惑うことはなかったんです。
というよりも、開業当初は全くお客様がいらっしゃらず時間にもゆとりがあったんですよね。
オーナーの意向もあり、当時としてはお洒落な雰囲気の店にしていたのですが、ネットは無い時代でしたし広く開店告知も出来ないため、口コミで知っていただかない限り入りづらさがあったかもしれません。夜だけでは売上が厳しく、妻の協力のもと昼営業を始めて定休日を作らずに働き詰めでした。
そこから少しずつ近隣で働くお客様などがいらっしゃるようになるのですが、昼休みの限られた時間に焼肉はなかなかハードルが高いので、週替わりで中華料理を始めたり色々と挑戦しましたよ。徐々に夜いらしたお客様からの口コミが広がっていき、最終的に夜のみの営業に戻すまでの約一年間はずっと赤字続きだった記憶があります。
ーーー大変な時期にご自身の中でも「焼肉」に対する向き合い方に変化はありましたか?
従来の仕入れではメニューのレパートリーも決まってしまうので面白くないな、と。そこで、せっかく卸しをするオーナーがいるのだから、牛を一頭買いしようと思いました。当時はどこの焼肉屋もしていなかったんですよ。
とはいえ、一頭買ったはいいものの、「何これ?」みたいになりまして(笑)。僕は師匠と呼べる存在もいなかったので、誰かに教わった経験もなかった。だからとりあえず見様見真似で全部切って、焼いて食べる毎日。部位の名前も分からなかったので、部位毎にA.Bと名前を付けながら「この部位はこういう味でこの厚さで切ると焼いた時に硬いんだ!」と気付いたことを大学ノートに書き留めて、全て独学でやっていましたね。
ーーー在庫を抱えてしまうことのリスクとはどう向き合われていましたか?
ひたすら食べて勉強する時間だと思っていました。この生活を続けていたら、従来のパーツ買いよりも一頭買いの方が肉質の良いものが低価格で手に入ることが分かったんです。当時は当店で扱うクラスのロースやサーロインがパーツ買いでキロ/約1万円以上したのですが、一頭買いは「枝肉」という脂や脛などが付いた状態にはなるものの肉質も申し分なく、しかも3〜4千円で買えたんですよ。
余分な部位まで使いこなすには客数が必要になるわけですが、幸いにも開業から一年半ほど経った頃にはお客様が増え、取材も入るようになり開店前には行列ができるほどになりました。
ーーー劇的に変わった一年半だったのでは?
ありがたいことにお客様がお客様を連れてきてくださり更に広まって。仕込み前の早い時間からお客様が並ばれるようになり、ウェイティングボードにお名前を書いていただくようにしたのですが、開店時間には「本日の受付終了」という日々が続きました。
営業時間の6時間で100人のお客様を4回転半で回す無茶苦茶な詰め方をしてましたね。最初のご注文から10分以内には全商品を全て揃えるくらいのスピード感が必要で、アラカルトでのご提供でしたが、オーダーが入ってから手切りにこだわっていたので本当に大変でした。営業前に仕込みをするのですが店の冷蔵庫に入り切らず、営業中に近くの倉庫に取りに行っては塊をバラしてまた切って、ずっと腱鞘炎でした(笑)。
ーーー肉がより良質なものを使えたというのが人気に拍車をかけたのでしょうか?
それもあったと思いますが値段が圧倒的に安かったんです。和牛のA5ランクの雌のみを仕入れていたのですが、カルビもロースも500円でした。一番高かった時でも580円くらいで客単価は4000円ほどだったので、「今日売ったね!」という日であっても一日の売上で言うと100人で40万円くらいです。
当時は今でいう「大衆焼肉」の文化がなく、焼肉屋というと昔から営む少し入りづらい印象のお店が幾つかでチェーン店もなかった時代でした。なので「誰でもカジュアルに入れて焼肉が食べられる店をやろう」という想いがあったんです。
ーー毎日満席状態の最中、2007年にお店を辞められましたが何かきっかけがあったのでしょうか?
僕が店を辞めるまでの10年間は、毎日が戦場のような日々で、僕だけでなくスタッフもどんどん疲弊していく感じになってしまったんです。お客様と向き合える時間すらない状態に、「何やってるんだろうな」と。時にはお客様同士でトラブルが起きたりもして、それが起きないように神経を張り巡らせながら、どんなに忙しくてもミスのないよう常にこなすだけの状態になってしまって。皆さん「おいしかった」と言って帰ってくださり、妻が対応してくれましたが、僕はお客様の顔を見てまともに挨拶さえできる状態になかった。だから、「もう10年やったし恩返しもできただろう」と飲食業界から一度離れることにしたんです。
ーーー飲食業界を辞めてからは何を?
内装業を営む友人から関西で一緒に仕事をする誘いをいただいて、仕事に必要な免許も取得して水道工事から大工仕事まで色々とやりました。一年ほど続けて東京に移り、内装業をある程度こなせるようになった2009年の39歳の頃、用賀の店時代の常連のお客様が「込山さんの焼肉が食べたい」と出資の提案と共に飲食業界に戻って欲しいと僕のところにお願いに来られたんです。すでに内装業としての仕事もあり悩んだのですが、もう一回やってみるか!となったわけです。
新しい店は一軒目の成功体験を元に立地よりも家賃の安い場所で探して、駒沢駅から徒歩20分ほどのひっそりとした住宅街を選び、内装業の経験を活かしながら3年ほど費やして【Cossott'e(コソット)】を立ち上げました。
ーーー忙しかった10年の経験を踏まえて、次はどういったところを意識されましたか?
お客様を見渡せるようにしたいという想いがあり、半オープンキッチンスタイルにしたことですね。口では偉そうなことを言っていてもビビリなので(笑)、お客様の反応を見ながら「この方はこういうのが好きなんだ」と知りたかったんです。できるだけ一人一人に沿った味付けに変えたいという想いもあったので、お客様に寄り添ったコミュニケーションが取れるスタイルに変えたことで、仕事に楽しさを感じながら「僕は人が好きなんだな」と気が付きましたね。それに焼肉というと奥の方から出してくるイメージでしょ?安心感というのをお客様に感じてもらえたらと思ったんです。
また、アラカルトの他に様々な部位を愉しんでいただけるよう、一人一切れずつ食べる「おまかせの肉盛り」を用意しました。ご好評いただき、ほとんどのお客様が注文してくださいました。
ーーーお客様によって味を変えるのはなかなか難しいのかなと思うのですが…
アラカルトもあったので難しい部分でしたが、「おまかせ肉盛り」は部位毎に「こちらはタレで、もう一つは山葵醤油で食べてくださいね」というようにアナウンスしていました。また、基本的にはお客様自身で焼いていただくシステムだったところを、部位によってはスタッフに焼かせるようにしたり。当時はあまり無いスタイルだったので新鮮に感じてもらえたと思いますし、一番美味しい状態で僕たちも召し上がっていただきたかったんです。「こう焼いたら美味しいよ」とお話をしながら焼かせていただいていました。
肉のカットや順番にもすごくこだわりましたね。全て同じ厚さにカットして食べると印象に残らないんですよ。厚いものと薄いもの、味の濃いものとさっぱりしたものと、提供する順番を意識して濃淡や緩急を作りだしていました。
ーーー例えばこの部位はこの厚さで、とかあるのでしょうか?
僕は逆のことをやっていました。一般的に硬い部位は薄く切るのですが焼くとモソモソとした食感で終わってしまうし、反対に脂の乗った柔らかい部位は厚く切れば美味しいけれど一枚食べるともうお腹いっぱいになっちゃう。だから柔らかい部位をあえて薄切りし、硬い部位を厚切りにしていました。脛肉など焼肉屋では本来絶対に使わないような硬い部位も一頭買いなので使うわけですが、ものすごく厚切りにして仕込みの段階で筋も厚めに蛇腹切りにしてから自家製の塩麹を塗り込んでおくんです。すると焼く時には、肉が分厚いからお客様は必然的に中まで焼き切れず、結果としてレアで食べてくださることになり、柔らかい状態で召し上がっていただけるんですよ。
ーーーまさに逆転の発想ですね!
教わる人がいなかったからこそ、できたことかもしれないですね。固定観念がなかったので。もちろんお客様にも説明をするのですが、肉に詳しい方は皆さん驚かれていましたね。
ーーーその後【Cossott'e(コソット)】は2店舗目もオープンされたんですよね。
2店舗目の麻布十番店も順調にうまくいっていたのですが、僕の身体がおかしくなってきてしまって。病院に検査へ行ったら頚椎症と診断され手術することになり、しばらく休みを取りました。当時46歳を迎えていたので、現場に立ち続けるのはスタッフに迷惑をかけるかもしれないと思い悩んでいた頃に、山梨の叔父が経営する工場の後継者問題が出てきて、一時的に僕が任されることになったのをきっかけに、店を若手に任せて飲食業界に区切りを付ける決断をしました。
ーーー現場を離れるのは二度目になるわけですね、そこから現在の【誇味山】を始めるに至った経緯は?
流石にもうやらないだろうと思っていたんですけどね。2〜3年ほど経った頃に、妻と2人でもう一度小さな店をやるか!となりました。とはいえ、東京は3年のブランクがありましたし迷いがある中、十数年付き合いもある「ONE OK ROCK」のTAKAと仲が良かったので相談してみたんです。すると「絶対戻ってきた方が良い、困ったことがあれば全財産投げ打ってでも助けるから」と強く背中を押されて、今があります。
最初は目黒など落ち着いたところで、知る人ぞ知る店としてやりたかったのですが、なかなか良い物件が出てこなくてエリアを広げて現在の地に行き着きました。ただ、家賃も高いですし整合性を考えると、これまでの価格帯では無理だろうというのは分かっていました。金額を変える分、今まで以上にお客様と会話ができる店にしたくて、数センチ単位までこだわり設計図を自ら引いたんです。料理も僕が一番やりやすいコースでの提供スタイルに切り替えました。
価格帯は上げる形とはなりましたが、開業当初から知り合いや友人が通ってくれたり、新規のお客様もいらしてくださって、50歳手前のギリギリのタイミングだったと思います。
ーーーお客様にお料理をお出しすることに対して大切にされていることは?
美味しいものが溢れている世の中ですから。若い頃は「この辺りで一番おいしいものを出し続ける」という気持ちでやっていたのですが、少しずつ変わり始めました。「おいしさ」というのは結局のところ好みだと思うんです、お客様に合うか合わないかだけなので。お客様のお顔を見て好みを察知し、その人がおいしいと思えるものを出したい気持ちはもちろんありますが、ただそれを突き詰めようとは考えていなくて。今はお客様が当店に訪れる用途やシーンに合わせて、お客様にとって「愉しい空間を作りたい」というのが一番です。
昔は「おいしい」と言われることが嬉しかったのですが、今は「楽しかった」と言われる方が嬉しくて。以前はグルメサイトの口コミや点数も気になりましたが、全く見なくなりましたね。
ーーー若い頃とは考え方が変わったわけですね。
20代の天狗になっていた自分に対する反省ですよね。あの頃に今のような考え方ができたかと問われたら難しいのですが、もしも若い頃の自分に会えたら言葉は伝えずにとりあえずぶん殴ります(笑)。
それにね、今の考え方になったことでストレスがなくなるんですよね。
ーーーお客様に寄り添う空間作りをするうえで、大事にされていることはありますか?
「気遣い」でしょうか。お客様がいらした時にどういう関係性かを瞬時に見極めてお料理を出す順番に配慮したり。あとは基本的に時間制限も設けずに、ある程度お客様が自由に過ごしていただきながら愉しんでいただくことが一番かなとも思っています。
当店は2019年のオープンですが、コロナの経験も今のマインドに変えた一つのきっかけかもしれません。離れてしまう人もいましたが、すごく関係が深まった人も多かったですし、心配して助けてくださる人もいました。この時期に今まで行きたかったお店にも伺えたり、普段なかなか交流ができなかった料理人とのご縁や横の繋がりも広がり、お互い協力しながらコラボイベントもしたことで、様々な気付きを得ることができました。
ーーー人との繋がりや縁が【誇味山】の魅力の一つでもあるのですね。
お客様からは「西麻布の実家」だと(笑)。特に20代後半から30代半ばくらいのお客様は、僕たちをお父さん/お母さんと呼んでくれるんです。「ただいま」と店に来て、「いってらっしゃい」と僕たちがお見送りする。当店はミュージシャンや女優さんのお客様も多くて、親元を離れて東京で頑張っている子たちばかりなのですが、料理人とお客様という垣根を超えて慕ってくれているというのは嬉しいものですよ。
ーーー最後に込山様にとって「おいしい」とは?
人の気持ちかな。結局は誰と食べるかなんですよね。だからこそ、心地良い空間で食べるものはおいしいと感じられると思うんです。これからも僕はこの店でお客様をお迎えし、心温まる心地良い空間をご提供し続けていけたらいいなと思います。
「これまでの経験が全て繋がった」と屈託ない笑顔で、温かみのある木の設えを見渡す込山氏。板場を挟むようにカウンターとテーブル席が配置され、全ての客席を見渡すことができ、個室を除く16席の焼き場をフルアテンドすることを可能にした込山氏。自ら設計と内装を手掛けた空間は、お客様一人一人に細やかな気遣いをしたいという想いがヒシヒシと伝わる。今宵も【誇味山】には穏やかな時間が流れ、技術を尽くし真心を込めて焼きあげる込山氏の極上の焼肉を、心ゆくまで堪能する客人の明るい笑い声が溢れる情景が目に浮かぶ。
取材/柳屋 有里
文/AutoReserve Magazine編集部
撮影/中岡あずさ
This yakiniku restaurant was opened by Hideki Komiyama, the founder of the popular yakiniku restaurant "Cossott'e" in Komazawa. Located near the Nishiazabu intersection along Gaien Nishi Dori, the restaurant offers yakiniku made from A5-rank Japanese black beef, which the owner himself carefully selects and buys from a single cow. The restaurant is a warm space with plenty of wood, where you can enjoy it with carefully selected wines and Japanese sake.