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苦悩と飛躍の時を経て、東北・秋田と世界を繋ぐ【鮨駒】生駒憲正氏の志
2025/4/14

苦悩と飛躍の時を経て、東北・秋田と世界を繋ぐ【鮨駒】生駒憲正氏の志

秋田県由利本荘市に、県内のみならず県外や海外からも客人が訪れる小さな鮨屋がある。その名は【鮨駒】。東北の新鮮な海の幸にこだわり、創作性を加え、独自の鮨の世界を切り開いてきたのは店主の生駒憲正氏。アクセスが良いとは言い難い場所に店を構えるも、多くの客人に日常では得がたい価値ある美食時間を提供する生駒氏は、ロサンゼルスとラスベガスにも店を展開するべく、忙しい日々を過ごしているという。止まることのない生駒氏の勢いの原動力とは何なのか。今回は生駒氏の足跡を辿りながら、独自の鮨へのこだわりや新たな挑戦への意気込みを伺った。

秋田から仙台、そして銀座へー憧れの階段を駆け上がった修業時代

ーーー鮨職人になったきっかけは?

高校に上がる頃まではさほど料理の世界に興味があったわけではないのですが、実家が鮨屋をやっていたので、両親の背中を見て育ったというのがやはり大きかったと思います。仙台の調理師専門学校で学び、卒業後はそのまま仙台の【寿司田】で働き始めたのですが、数々の鮨の名店が居並ぶ銀座に憧れて、3年程で東京の【乾山 銀座七丁目店】に移りました。最初の店で修行をするうちに鮨の世界の奥深さに触れ、「せっかくなら銀座で勝負がしたい」という気持ちが強くなったからです。

銀座で初めて鮨を握らせてもらったときのことは今でも忘れられません。見慣れぬ新人がいきなり現れたものだから、常連のお客様たちは皆さん興味津々で(笑)、カウンターから身を乗り出して私の手元をジーッと見つめるわけです。仙台で握りの経験を積んではいたものの、私は緊張のあまり頭の中が真っ白になりました。すると「この人、大丈夫?震えてるよ」と冷やかしの声が飛んで…。まあ、本当に手が震えていたんですけどね(笑)。それだけ銀座という晴れやかな舞台への憧れが強かったのだと思います。

若かりし日の挫折を糧にして、成長した自分で新たな勝負に挑む

ーーーアメリカへの異動も経験されたそうですね。

アメリカには一度行ってみたかったので良い機会だと思いました。場所はニューヨークにあるロックフェラー・センターの一階でした。「スシといえばカリフォルニアロール」が主流だった時代に本格的な江戸前鮨を振る舞う店で、当時は日本人メジャーリーガーや俳優・タレント・歌舞伎役者さんなどがよくお見えになられていました。

当時、アメリカ国内で鮨を食べる割合はわずか3.5%程と言われていたんです。そんな時代背景の中で、「アメリカ人に江戸前の味が理解できるのだろうか?」と渡米前は少し疑問でしたが、実際に店に立つと「食」に対するお客様の意識の高さに驚かされました。皆さん「日本の鮨」のことを勉強されたうえで来店されるので、なかなか厳しい目をお持ちでしたよ。当時の私は英語が喋れず、「あの料理人は何のサービスもしてくれない」と不満を漏らすお客様もいました。お客様には私の仕事ぶりが消極的に映ったのでしょう。はるばる日本からやって来たのだから、「プロの鮨職人として完璧な人物だろう」と思われていたようです。

ーーー他にもアメリカで苦労されたことはありますか?

やはり、カルチャーショックは大きかったです。フロアスタッフが「お客様はこんなものを求めていないから作り直してくれ」と、職人が握った鮨に平気でダメ出しをするんです。アメリカはチップ文化ですから、担当したテーブルのお客様への接客が徹底されていて、たとえアルバイトであろうと当たり前のように料理人に意見をします。ところが、仕事が終わると一変してフランクになり、「一緒にご飯に行きましょう」と何事もなかったかのように話しかけてくるんです。初めて海外で仕事をする日本人にとっては、まず理解ができない感覚なわけです。職場の人間関係について、一度上司に相談したことがあるのですが、「マンハッタンは世田谷区ぐらいの広さに135の人種が住んでいるのだから、お前一人の常識が通用するはずないだろう」と一蹴されました。新しい発見も多く、楽しくはあったのですが、己の未熟さゆえに歯がゆい思いもしました。機会があればまた戻りたいような、でも戻りたくないような(笑)、アメリカは自分にとって何かをやり残してきたような場所でした。

しかし、今回ロサンゼルスとラスベガスへ出店の話が持ち上がり、「もう一度挑戦したい」という強い想いに突き動かされました。鮨職人としても一人の人間としても、この二十年余りで確かなキャリアを積んできたという自負があります。「今の自分ならばやれるはず!」と不安よりも期待のほうが大きいですね。

接客への自信のなさが功を奏す「予約のとれない店」の誕生

ーーー独立して【鮨駒】をオープンした経緯を教えていただけますか?

いつか地元・秋田で自分の店をやりたいという夢を抱いていたので、一度銀座を離れる決心をしました。もう少しフランクな雰囲気の店で鮨を握ってみようと思い、埼玉の大宮にある鮨屋で働き始めたんです。ところが翌年、東日本大震災の影響で事業の縮小が決まりました。私は自分が店を抜けさえすれば、他のスタッフの待遇は維持されるだろうなと考えたんです。そして社長に「私は自分で店をやるのでスタッフを残してやってください」と独立を宣言し、秋田に店を構える覚悟を決めました。

ーーー思いがけず独立することになり、準備が大変だったのでは?

独立以前から何度も店のオープニングには携わってきたので、開業準備は比較的スムーズに進みました。ただ、秋田は東京のような街中と違い、そもそも人が歩いていないので、「お客様が来てくれるだろうか」という懸念はもちろんありましたよ。その一方で、いきなりたくさんのお客様にご来店いただいたとしても、接客面での不安がどうしても拭えませんでした。開業して間もない不慣れな状況で、お客様に迷惑をかけたくなかったのです。そこで、しばらくは一日一組限定とし、お客様に対して満足のいくおもてなしができたら二組に、二組ができたら三組…と段階を踏みながらお客様を受け入れることにしました。

日一組ならば席は埋まるので、いわば連日満席状態です。ご予約のお電話をいただいても「もういっぱいです」とお断りするしかなく、営業していても常に予約がとれない状況に「あそこのお店はどうなっているの?」とご近所の方々は不思議に思われていたようです。やがて「なかなか予約のとれない店」として知られるようになり、メディアなどにも注目されて、私としては思いも寄らぬ展開となりました(笑)。

接客面のお話に戻ると、私がかつて百貨店内の店でリニューアルオープンに立ち会ったとき、お客様が殺到して接客が雑になってしまったという苦い経験をしました。当時は営業終了後に連日反省会でしたね。当店の開業にあたっては、とにかく「全てのお客様に心から満足いただける店にしたい」という想いが一番でした。予約を制限したことで、売上の数字だけを見れば厳しい船出とはなりましたが、オープンが遅れたと思えば何てことはありません。結果として店にとってはプラスでしかなかったです。

地元食材の魅力を最大限に引き出す「自分ならでは」の鮨がついに開花

ーーー【鮨駒】の鮨の特徴は?

酢締めや漬けといった江戸前鮨の技術を用いつつ、お客様の目の前で鮨種を炙り、素材の香りを楽しんでいただくなど、東北の食材を使いながら自分ならではの鮨を握ることを信念としています。当店は決してアクセスが良い場所とは言えません。ですので私は、お客様にわざわざ足を運んでいただく労力に見合うだけの「価値ある鮨」をご提供したいと考えています。そのためには他所で食べられる鮨を握っても意味がありません。魚をただ捌いて握るだけではなく、熟成させたり炙って香りを立たせたり、試行錯誤を繰り返しながら、素材の旨味を最大限に引き出す努力は惜しまずやっていくつもりです。地元の方には「こんな食べ方があるんだ」と身近な食材の魅力を再発見していただき、遠方のお客様には秋田、そして東北の素晴らしさを、私の鮨を通じて体感いただけたら嬉しいです。

ーーー食材はどこで仕入れられているのですか?

調理師専門学校時代の知人が宮城県で漁師をやっていて、そこからさらに他の漁師さんも紹介してもらいながら魚介類は直で仕入れをしています。本来、東北の魚は一度豊洲に運ばれて、それをわざわざ買い戻すなんてケースも珍しくありません。おかげさまで、当店の場合は港に水揚げされた魚が翌日には届きます。雲丹は箱の中でまだ元気に生きてますよ。シャリは私の実家の田んぼで作った米を使用し、稲藁も干して魚の藁焼きに使っています。

ーーー最初から秋田や東北の食材にこだわられていたのですか? 

開業当初は東京の頃と同じような鮨を握っていました。あるとき、常連のお客様が「秋田に良い店があるから」と東京のお知り合いにお声掛けして連れて来られたのですが、「こんな鮨は東京でいくらでも食べられる」、「もっと地元のものが食べたかった」と残念な感想を残して店を後にされました。お客様の「期待外れ」といった様子が私の心にずっと引っかかっていました。

ちょうどその頃、東京・四ツ谷の【すし匠】の創業者である中澤圭二氏がハワイで店を開かれると知り、「これだ!」と気づかされました。テレビのドキュメンタリー番組の中で、中澤さんはハワイの食材で鮨を握られていたんです。自分も同じようなことができないだろうかと模索しているとき、知人から「食べに行ってみては?」と紹介されたのが新潟にある【登喜和鮨】でした。新潟の米に塩・魚・野菜・酒…と全てが新潟尽くしで、地元の恵みに特化したもてなしに私は心から大満足し、衝撃を受けました。「どうしたらあんな味になるのだろう」と、帰りの車の中で舌の記憶をたどりながら感動に浸っていました。そして「自分の進むべき道もこれしかない」と、食材を東北産に絞りこんだ【鮨駒】のスタイルを確立していきました。

一軒の小さな鮨店を起点に、広がり続ける交流の輪

ーーー秋田の魅力を教えていただけますか?

多少ひねくれた表現をすると「何もないところ」ではないでしょうか。空気がきれいで、この地域に関して言えば、海があって山があって川がある。そして、他には何もない…と言うと語弊があるかもしれませんが、ここは周りに何もないのでお客様は段々と不安になるみたいです。「こんなところにお店があるんだろうか」と(笑)。

例えば銀座なら何となく店の雰囲気は想像がつくと思うのですが、鮨を食べるためにわざわざ出かけるというプロセスも【鮨駒】の味わいの一部になっているのでは、と思っています。「この魚はそこの海で獲れたんですよ」とか、「目の前の川で泳いでいたハゼですよ」と、都会とは全く異なるコミュニケーションが当店では日々育まれています。東北旅行の途中に立ち寄る方もいれば、最近では当店での食事を目的に秋田に来られて、空いた時間で近くを旅するといったお客様も増えています。逆に私が各地のイベントに呼ばれるなど、日本全国そして海外へと交流の幅が広がっていくのも楽しいですね。

ーーー将来に向けて取り組んでいることは?

まずはアメリカ出店に向けて、職人の育成に力を入れています。秋田市内に【鮨屋】という店を開いたのは、若い職人たちに修行の場を提供するためです。来年にはニューヨークでの出店も控えていますが、ゆくゆくはドバイやヨーロッパに…と夢は大きくなるばかりです。海外の方が【鮨駒】の鮨にどのような感想を持たれるのか、どういった評価をしてくださるのか、今から楽しみで仕方ありません。そして、私自身もその地域の料理や文化を吸収し、【鮨駒】にしか握れない新しい鮨を追究していきたいですね。

ーーー最後に、生駒様にとって「おいしい」とは?

お客様が心から楽しみ、幸せな気持ちになって「また来たいね」と思えるかどうか、ではないでしょうか。私が以前よく言っていたのが、「ライバルはディズニーランド」です。決して安くはない入場料を払い、アトラクションに乗るまで2〜3時間並ばされ、子どもはくたくたになって寝てしまい、ずっと抱えていて重たい(笑)、それでも帰りの道すがら「また来ようね」と家族みんなで笑顔で会話をしますよね。料理屋が提供する「おいしい」も同じだと思います。私は、食事を終えたらすぐに「また来たくなる」店づくりを、これからも大切にしていきたいと思っています。

最後にもう一つ、【鮨駒】の魅力を付け加えるとすれば、「声」ではないだろうか。生駒氏の声は通りが良く、カウンター越しでも聞き取りやすい。しかも、言葉の響きが軽やかで耳に心地良く、客人は美声とともに差し出された一貫を、まずは想像の世界で存分に味わうことになる。ゆえに、口にする前から【鮨駒】の鮨は「おいしい」のだ。魅惑の食体験が詰まった秋田の名店で、五感を刺激する逸品を堪能してみてはいかがだろう。

取材/AutoReserve Magazine編集部
文/青木 玲子
撮影/安井 智洋

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