ーーー料理人を志したきっかけは?
僕は喜界島で一族の長男として生まれました。料理の道を志したのは「長男が親孝行するもの」という想いがあり、いずれは腕を磨き両親のためにできることをしようという親孝行のためでした。ですが、僕は幼少期の頃から料理人を目指していたわけではありません。
僕は小学校低学年の頃に、複雑骨折の治療のために二年間東京に移ったことがあるんです。田舎の喜界島から一度も出たことがなかった当時の僕にとって、「東京」はあまりにも別世界、見るもの/触れるもの全てが新鮮でカルチャーショックとでもいうのかな、新しい刺激が多かったのでしょうね。今振り返ると、幼少期の東京での経験が未来を切り開いたと思いますね。怪我を直して帰郷したばかりの頃は、周りの子に勉強が追いつかず悔しい思いもしましたが、持ち前の負けず嫌いの精神で、高校生になった頃には成績優秀者として「いずれ東京に行くんだ」という想いが芽生えていました。
高校卒業後の進路に悩んでいた頃、周りの友人は皆「大学に行きサラリーマンになる」と話す姿に違和感がありました。サラリーマンになっても自分の意志で決断ができない環境に身を置くことは僕には耐えられないし、自分の道は自分で決めたかった。悩んだ末に僕は鹿児島の自衛隊に入ったわけですが、これはあくまで自力でお金を貯めて東京に行くための下準備。東京に行って新聞配達の仕事をしながら半年ほど経った頃、当時、二子玉川にあった【コックドール】でウェイターとして働くことになりました。
仕事にも慣れて5ヶ月ほどが過ぎた頃、僕は「キッチンの方が楽しそうだな」と思うようになりました。キッチンから漂う料理の香りは、子どもの頃に叔母が経営する食堂で感じた記憶と重なり、自然と惹かれていったのでしょうね。【コックドール】はキッチンスタッフが足りていて空きがなく、独立予定のスタッフの西洋料理店【煉瓦屋】を紹介され、新聞配達も辞めて本格的に料理人としての道を歩み出しました。
ーーー料理人としてのスタートはいかがでしたか?
当時、店は三人体制で僕は三番手としてキッチンを回していて、知らないことばかりでしたが毎日楽しかったです。なぜなら僕は「故郷に戻り親孝行する」という目標が定まっていたから、目標への道が開けて嬉しかったんです。その気持ちを大切にしながら、「努力はいつか報われる」と思い、日々励んでいましたね。店は軌道に乗っていましたが、ある頃からオーナーと僕たちの間に意見の相違が生じて、結果【煉瓦屋】を去ることにしました。再び【コックドール】の系列店で十数名いるキッチンスタッフの三番手として働くことになりました。店は毎日大忙しでしたが、暇を見つけてはフランス料理やフランス菓子の本を買って店で研究したり、当時はポール・ボキューズ氏が東京に来日されていて、勉強のために食べに行くこともしました。やはり腕を磨くには時間を惜しまず努力しなければならないと思っていました。その後は、都内のホテルや本格的な高級フランス料理店【レ・ジャンス】で経験を積みました。
ーーーその後、フランスで修行をされたのですよね?
僕は25歳の時に結婚し、義父から夫婦で小さな店を始めたらどうかとの提案を受けたのですが、当時の僕はまだフランス料理の経験が浅く、本場フランスで食べ歩きがしてみたい旨を伝えたところ、二週間後には義父がフランス行きのチケットを用意してくれたんです。迷うことなくフランスに向かいました。訳あって飛行機の中で妻とはいさかいがあって別れることになったんですけど(笑)。フランスに到着してからは、僕一人でどうにかせざるを得ない状況になりました。右も左も分からぬ異国の地に降り立った僕の手には、僅かなお金とジョエル・ロブション氏宛の紹介状、二名の先輩の電話番号しかなかった。
ある意味この時から、僕のフランスでの修行は始まっていましたね。先輩にミシュラン一ツ星の働き口を紹介していただくも、フランス語が分かるはずもなく、もちろん断られる始末です。ですが僕は生きていくしかなかったので、どうにかお願いして、サンジェルマン・デ・プレにあるビストロを紹介していただけたんです!そこは大繁盛店だったので、働き始めた日から即実践の現場でした。言葉の壁はあるものの食材は全て現地のもので、これまで輸入品しか扱ったことのなかった自分には新鮮な経験の連続で、日本よりも楽しいとさえ思えました。日本では見たこともない調理器具もあったり、料理人としてこれほどワクワクすることはなかったです。毎日疲労困憊ではありましたが(笑)。
ビストロで半年ほど経験を積んだ頃、バスク地方の郷土料理を出すゴエミヨ15トックの店のシェフ代理を探していると僕に声を掛けていただいたんです。入社試験で作った料理が評価され見事合格し、郷土料理の見識や経験を積みながら、この頃には懐事情や労働環境にもだいぶゆとりが持てるようになりました。
ーーー本場フランスでの実践を積み、本格的な高級フレンチの道に進まれたタイミングは?
ミシュラン三ツ星の名店に食べに行く余裕も生まれ、感銘を受けたシェフには「働かせて欲しい」と直談判していました、血気盛んとでも申しましょうか(笑)。【アルケストラート】や【トロワグロ】で修行経験を重ねて、当初は食べ歩きのつもりで行ったフランスも4年半ほどの月日が流れ、そろそろ帰国しようと荷造りをしていた時に、ジョエル・ロブション氏宛の紹介状があることを思い出したんです。慌てて【ジャマン】に食べに行きましたが、私のフランス滞在の中で最も美味しいと衝撃を受けた店でした。ロブション氏に紹介状を渡し、話す機会を得ましたが、「手紙がだいぶ古いな(笑)」と笑われましたよ。僕の最後の修行先は【ジャマン】でした。ロブション氏は非常に厳しい方でしたが、僕は毎日楽しかったですし、学びも大きかったです。
ーーー【ジャマン】をはじめ、高級フレンチでの経験で得た学びは?
やはり卓越した技術や感性によって生み出される一流の料理を食べたり、スタッフとして間近で仕事をたくさん見ることができたことは大きな財産となりました。僕はインプットの速さと再現力に自信があるのですが、一つのポジションだけでなく全体を感じることが大事なんですよ。たとえどんなに有名店で働いた経歴があれど、全体をしっかりと感じる力を養い、学びを自分のものにしなければ意味がありません。
ーーー日本に帰国されてからのエピソードをお話しいただけますか?
1984年に帰国し、まず東京・赤坂【光亭】の開業に伴い、自分の力を東京で試すべくシェフとして働き、2年後に横井英樹氏の別宅であった青山のアールデコ調レストラン【ロアラブッシュ(現:メゾン ド ミュゼ)】でシェフを務めました。当時はバブル最盛期だったこともあり、店の売上は絶好調で僕自身の自信にも繋がりましたね。著書もいくつか出し、「野生の恵み」ではジビエについて紹介していますが、当時の日本にはジビエを出す店があまり無かったので新鮮だったと思います。
ーーー自身のお店を開こうと思われたのはいつ頃でしたか?
ある時、知人から「小田原で一緒にレストランをやろう」と持ちかけられました。小田原は漁港も近いので、地元で獲れる新鮮な魚を使って料理ができたら面白そうだな、と小田原に行くことを決意して、1989年に【ステラマリス】をオープンしました。
無農薬野菜や相模湾の魚、電子水など、他の食材にもこだわり、日本ではまだ珍しかったジャージー牛のミルクを使ったアイスクリームなど、新しい食材やアイディアも試しました。その頃にも著書を出すなど、忙しい日々でしたが充実していました。
ーーーその後、再びフランスの地でご自身のお店を出されましたね。
当時の日本はまだまだ本場のフランス料理への馴染みがない時代でしたから、僕は料理を作りながらも自分の作る料理が日本人にぴったり当てはまっているとは思えずにいたんです。例えば、フランスでは牛肉をメイン料理として提供することは基本的にないのですが、日本のフランス料理は牛肉が多く提供されるなど、素材や調理方法に大きな違いがあり、複雑な想いもありました。
そんな頃にパリでの出店の話があり、自分の料理はフランス人ならぴったり合うはずだと思い、即OKしました。当時の世情から立場的に日本人という難しさはありましたが、責任者/総料理長として、パリで自分の腕を試す覚悟を決め、勝負に出たのが1997年にオープンした【ステラマリス・パリ】です。オープン当初は集客に苦労しましたが、フランス古典料理の一つ「テット・ド・ヴォー(仔牛の頭の煮込み料理)」を独自の料理に昇華させたことが新聞や週刊誌に取り上げられ、後にロブション氏とテレビ共演するなどしていく中で徐々に注目を集めました。
ーーーその後も数々の輝かしい受賞や功績を残されていますね。
2000年にはパリで行われた「リエーヴル・ア・ラ・ロワイヤル(野ウサギのロイヤル風)」を、各料理人が独自の視点で作るコンテストで、高得点(19点/20点満点)で表彰されました。この得点は過去にロブション氏と僕の二名だけという快挙で嬉しかったですね。三ツ星や二ツ星のレストランを抑えて優勝できたことは、僕にとって大きな転機となりました。ダボス会議で料理を提供するなど、努力と挑戦の積み重ねが多くの実績や賞に繋がったのだと思います。
2003年には芝パークホテルのリニューアルとパークホテル東京(汐留)のオープンに携わり、10年ぶりに日本での挑戦も再開しました。日本国内では、同店を2005年にオープンした他、東京(銀座)をはじめ、全国各地にレストランを展開するなど精力的に活動をしてきました。ちなみにクルーズ客船でゲストに料理を振る舞うなんてこともしていたんですよ(笑)。
ーーー料理を作るうえで大切にされていることは?
良い素材を仕入れることが一番大切なことだと思います。肉であれ魚であれ、良い素材を仕入れるには経験が何よりも大事です。素材を見極める力は経験を積むことで磨かれていくものだと考えています。素材を見極め、「素直に向き合うこと」が良い料理を生み出す第一歩です。弟子たちを指導する際も、「素直であること」を伝えています。料理とは素材との対話の中で生まれるものです。素直な気持ちで素材に向き合えば、自然と答えが見えてくるはずです。これはとても大事なことだと思います。さらに、料理人自身の健康も欠かせません。健康であるからこそ、料理に向き合う力や集中力が発揮されます。「健康であること」と「素直な気持ちで素材と向き合うこと」が料理人として大切にすべきことだと思いますね。
ーーー今後の展望や挑戦したいことを教えてください。
現代は多様な料理が次々と登場する時代です。それ自体は素晴らしいことだと思いますが、僕はあまり流行を追いかけるタイプではありません。これまで僕が培ってきたフランス料理の知識や経験が、次世代の役に立つならば嬉しいですね。
今後の具体的な展望としては、和歌山での活動をさらに強化し、一年から一年半後を目処に移転を計画しています。現代的なキッチン設備を導入し、新たな店舗づくりを進めたいと考えています。今後も自分自身の健康を保ちながら活動を続けることを大切にしたいです。
ーーー最後に、吉野様にとって「おいしい」とは?
人それぞれ味覚や感じ方が違いますから、「おいしい」とは本当に難しいですよね。その日のコンディションや気分も関わってくるし、食事をする空間の空気感も大事です。「おいしい」と感じる瞬間はたくさんあって、五感によって生み出されるものです。料理人としては、「おいしい水」が手に入る地域で仕事ができることがすごく幸せだと思いますね。水はソースやスープの味を大きく変える要素ですし、水によって料理全体の味も変わってくるんです。良い素材を仕入れるのと同様に僕は水にもこだわりたい。料理については自分の持つ「おいしい」の基準を大切にしています。常に自分の五感を研ぎ澄ませながら、味を見て料理を作るようにしていて、弟子たちにも味をちゃんと確認しながら料理をするように伝えています。また、料理の「見た目」は、最初にお客様が「おいしそう」という高揚感を味わっていただける重要な要素です。見た目の美しさにもこだわりながら、これからもお客様の心の琴線に触れる「おいしい」料理を作り続けていきたいです。
フランス政府より農事功労章 (Ordre du Mérite agricole) シュヴァリエを授与され、フランスにおける国家最優秀職人賞(MOF)の審査員をアジア人として初めて務めるなど、料理界において数々の功績を残す吉野氏。日本におけるフランス料理の礎を築く巨匠でありながら、今もなお高みを目指し、新たな挑戦を続けるという。決して自身の功績に驕ることなく、料理人としての道を極め、料理と向き合い続ける吉野氏の生き様と偉業は、後世に続く料理人の大きな指針ともなるだろう。和歌山の美しい風土と共にある【オテル・ド・ヨシノ】は、訪れるべき日本の名店である。
取材・文/AutoReserve Magazine編集部
編集/フードアナリストあい(棚橋 麻衣子)
撮影/鈴木 雅人
オテル・ド・ヨシノは、和歌山の豊かな食材を用い、クラシックなフランス料理を提供する名店です。料理長の松本が伝統を守りながら創り出す料理は、ここでしか味わえない逸品で、訪れるたびに心を躍らせます。ジビエから魚、デザートに至るまで、選び抜かれた素材の魅力を最大限に引き出し、格調高い味わいを堪能できます。和歌山の大地の恵みを、優雅で深みのあるフレンチとして楽しんでください。