ーーー子どもの頃から料理人を目指されていたのですか?
高校卒業後は、地元の青森県で飲食業とは無縁の大工の仕事をしていました。私の父親は漁師で、父方の祖父も漁師、そして母方の祖父は魚店という魚尽くしの家系ですが、私は船酔いがひどくて漁師には向かず、大工をしていた叔父の元で働くことになりました。
漁師町なので、大工の頃もとびきり新鮮な魚を自分で捌いては、時には自分で鮨を握ることもありましたね。魚に限ったことではないのですが、私は食べることが大好きで、休みの日は食べ歩きが日課でした。私が鮨の世界に憧れるきっかけとなった青森県【寿し処 よね吉】も、当時からの行きつけです。高級な鮨ダネを使用しながら価格と雰囲気は庶民的で、江戸前鮨の真髄のようなものを大将から感じていました。
ーーー料理の世界に入るまでの経緯を教えていただけますか?
決して裕福な家庭ではなかったので、何の疑問も持たずに大工の職に就き目の前の仕事に打ち込んでいました。青森を離れるなんて当時は頭になかったですね。自分の中で転機が訪れたのは29歳の時です。大工として10年必死に働いて生活もようやく落ち着いたので、「一度自分のやりたいことに思い切り挑戦してみたい」と考えるようになりました。そして「やるなら飲食!その中でも一番好きな鮨で勝負しよう」と自分の進むべき道がはっきりしてからの行動は早かったです。就職情報誌で目に飛び込んできた銀座の鮨屋で働かせていただくことになりました。
ーーーどうして銀座のお店を選んだのですか?
すでに29歳を迎えていた私は、「思いつきで飛び込んで果たして自分が通用する世界だろうか」という多少なりとも不安はありました。銀座を修行の場として選んだのは、「食文化の粋を集めた東京・銀座で勝負をして、そこでダメなら諦めもつく」と己を奮い立たせるためです。30代を目の前に、中途半端にダラダラやっても意味はないと決断しました。身を粉にして働き、厳しい現場で揉まれながら腕を磨いていくことが、自分にとっての最善の道だと自ら退路を断つ思いで上京しました。
ーーーついに鮨職人の道が始まったわけですね!飲食の世界はやはり大変でしたか?
朝から晩まで働き詰めでした。いわゆる下働きなので、魚には当然触らせてもらえません。下ごしらえを任されても大根おろしぐらいです。店の親方は全てにおいて「見て覚えろ」で何も教えてくれませんでしたが、職人の世界では当たり前という認識だったので不満はありませんでした。「学び」は、受け身ではなく能動的な姿勢が大事です。大工時代の修行を思い返しても、上の人に教えてもらっているだけでは技術が身につかないのは明らかでした。「見て覚えろ」は師匠の怠慢ではなく理にかなった指南法だと理解し納得もしていたので、親方の職人気質のやり方は私にとっては有難かったです。
時間通りに仕事をこなし給料をもらうという働き方もあるでしょうが、私にしてみれば店はあくまでも修行の場。一日でも早くこの修行を終わらせて自分の店を持つことが私のゴールだったので、一秒たりとも無駄な時間はありませんでした。先輩たち(といっても皆さん年下ですが)の仕事も、「私がやるので休んでいてください」と取り上げていましたね。人の仕事を奪うほどの貪欲さで働き通しの毎日でしたが、当時は仕事が辛いという感覚は一切無かったです。
ーーー山田様が一番苦労した修行は?
鮨屋にとって、鮨を握るというのは実は簡単なことなんです。何が一番難しいかというと接客です。私はあまり得意ではなく、慣れるまで時間を要しました(笑)。他の飲食業とは順序が逆かもしれませんが、鮨屋では鮨(料理)を覚えるよりも前に、この一番難しい接客を学びます。ホールに立つ人間は、お客様が望むよりも前に「お茶が欲しい/飲み物がなくなりそう」という状況を敏感に感じ取り、行動しなければなりません。お客様にとって居心地の良い空間を作り上げるのが一流のホール係であり、それは当店のようにお客様とカウンター越しにやりとりする場合も全く同じです。私は日々、いかにお客様に快適に過ごしていただけるかということを意識しながら鮨を握っています。
ーーー鮨の世界で一人前とされるまでにはどのくらいかかるものなのでしょうか?
お店にもよるのでしょうが、概ね10年と言われる中で私は7年目で独立しました。というか独立せざるを得なくなったのです。実家の父親が亡くなり、鮨の修行を諦めて青森に帰ろうかと思案していたところ、「店をやるなら協力するよ!」と私の鮨を気に入ってくださる方からお声を掛けていただきました。
実は、修行の2年目から知人に自分の握った鮨を振る舞う勉強会を開いていて、独立のお声を掛けてくださった方もこの会の参加者のお一人でした。2ヶ月に1度のペースで店を使わせていただき、身勝手な弟子の行動を容認してくれた親方にも感謝しかありません。自分なりの握りを探求する勉強会を6年続けてきた中で、私は「自分の好きな味をお客様も好いてくれる」と己の舌に自信が持てるようになりました。勉強会では、握りだけでなく同時に接客の経験も積むことができ、いざ自分の店を持つとなっても迷いや戸惑いはありませんでした。こうして、つけ場に立つことが許されない修行中の身でありながら、私は店で鮨を握る機会のないまま独立となりました。
ーーー実際にお店を開かれてからはいかがでしたか?
お客様に当店を広く周知いただくまでの3年ほどは本当にしんどかったのですが、雑誌やテレビで取り上げていただいたこともあり、4年目あたりから徐々に軌道に乗り始めました。この時メディアの目に留まったのが、魚の寝かせ方(熟成)を研究する中で生まれた「熟成鮨」です。今でこそ調理法として体系化されていますが、当時は魚の熟成はあまり一般的ではなく、「熟成鮨なら【鮨處やまだ】」とご贔屓にしてくださるお客様も少なくありませんでした。
多くのお客様にお越しいただくようになっても、正直私はまだ何か物足りず、メニューの再構築に取り組むことにしました。素材の持ち味を一口一貫で堪能する鮨は、食べる順序によって味わいに大きな違いが生まれます。この順番ならば旬の魚の旨味がより引き出されるはず!というように、前後のバランスがとても重要なのです。当店のコースを一つの完成された「料理」としてお召し上がりいただくために、どこにどのような味の起伏を盛り込めばお客様に楽しんでいただけるだろうか、ということに毎日思いを巡らせています。
ーーー【鮨處やまだ】の特徴やお店づくりをされるうえで大切にされていることは?
当店のネタは全て豊洲市場から調達しています。全15貫のコースの前半はいつもほぼ同じ流れでネタを握り、後半はその日の仕入れによって変化をもたせています。季節感を大切にして最高のものを選んでご提供することはもちろんですが、「過ぎたるは及ばざるがごとし」という言葉があるように、おいしいものが過ぎると飽きに繋がります。味もサービスも押し引きの塩梅がとても難しいのですが、程良い料理と程良い接客を理想とし、お客様に「また来たい」と思っていただける店作りを心掛けています。
―――最後に、山田様にとって「おいしい」とは?
料理人にとって「おいしい」は当たり前のことです。「おいしい」はあくまでも最低ラインで、プロの仕事というのはその先で勝負するものだと思っています。鮨屋であれば、「ネタが新鮮でおいしい」とわざわざ口にする必要はない、というのが私の考えです。 今も暇を見つけては全国の旨いものを食べ歩いていますが、客の立場になって言わせていただくと、私が店のどこに惚れるかというと、全体に漂う心地良さであり心意気なんです。料理の味はその次ですね。店はお客様との限られた時間を共有する大切な場所です。わざわざ足を運んでくださるお客様を居心地の良い空間でおもてなしすること、それこそが料理人の一番の務めだと私は信じて疑いません。
銀座鮨店の店主というよりも、山田氏の話は終始食べ物好きなお客様目線で語られた。鮨を握る間も、気持ちはカウンターの中と外を絶えず行き来しているのではないだろうか。もちろん、訪れた客人は店のもてなしに身を委ね、序章の一貫から終章の一貫まで物語を楽しむかのように最高級の鮨を頬張ればいい。知らぬ間に心もお腹も和んでいるはずだ。店を出る前に次の予約をお忘れなく。
取材・文/中島 玲子
撮影/眞田 厚司
鮨處やまだは、甘みと旨みが凝縮された熟成鮨が味わえる銀座の鮨屋です。店主・山田裕介氏が選ぶ日本酒とともにあじわってください。お店の名物は、小肌と椎茸です。握りは比較的小ぶりなので、少食の方でもコースを楽しめます。