ーーー料理人を志したきっかけを教えてください。
まずは料理との出逢いからお話ししたいと思います。実家がこの店に程近い京都・河原町三条で古書店をやっていました。学術書などを専門に扱っていたため、子どもが喜ぶような絵本や漫画は一切置かれていなかったのですが、唯一、幼少期の私が楽しめたのが、写真がたくさん載っている料理書でした。帝国ホテルの初代総料理長・村上信夫氏など、当時のトップクラスのシェフたちが長いコック帽を被って登場し、見たこともない色鮮やかな料理を紹介していました。本の中に描かれていた西洋料理の華やかな世界が、子どもの目にもとても魅力的に映ったのです。
父親は本の買い付けによく欧米に出向いていました。本と一緒に欧米の文化を持ち帰ってくるので、家の中でも西洋を身近に感じていたように思います。昔の家族写真を見ると、食事のテーブルにナイフとフォーク、そしてワイングラスまで一人一人にきちんとセッティングされています。僕が小学校低学年、妹はまだ幼稚園だったはずです(笑)。料理を作った記憶としてはっきりと覚えているのが小学校二年生の時、産休の担任に代わり赴任してきた先生に、「遠足の日に何か作ってきてあげる」と約束をし、当日は母親に教わりながら卵焼きを作りました。私が作った卵焼きを、先生は「とてもおいしい!」とニコニコしながら食べてくれて、それがとにかく嬉しかったです。料理を作ること、料理で人を喜ばせることの楽しさに目覚め、日曜の朝は家族のために目玉焼きを作ったりと、家の台所に好んで立つようになりました。
ーーーフランス料理との出逢いはいつになりますか?
兄の高校合格祝いに、父の知人がシェフを務める「京都ホテル(現ホテルオークラ京都)」の老舗レストランで食事をすることになりました。その時、生まれて初めて本格的なフランス料理を口にしました。小学校五年生の時ですね。忘れもしません、メイン料理は牛肉とフォアグラのポワレにトリュフソースがかかった「牛フィレ肉のロッシーニ仕立て」でした。これが感動的においしくて、「自分の進むべき道はフランス料理しかない」と子どもながらに覚悟を決めました。以来、より夢中になって料理を作るようになったのです。
中学生になると、私のフランス料理熱はさらにヒートアップしていきました。三年生のある日、ランチジャー(保温弁当箱)にフレンチのフルコースを詰め込んで、お弁当として学校に持って行ったことがあります。一緒に持参したお皿やナイフ・フォークを机の上に並べ、いきなりカチャカチャとやり始めたので、私の周りにはみるみる人だかりができました。隣のクラスからも、さらに職員室の先生たちまで私の様子を覗きに来る始末です。50人程に囲まれながら、私は前菜からデザートまで一人で平らげました。今思えば、だいぶ変わった中学生ですよね(笑)。
卒業後、すぐにでもレストランで働く気満々だったのですが、「高校だけは出たほうがいい」という父親の勧めで高校に進学しました。家で料理作りを続けながら、学校では強豪として知られたハンドボール部に入り、三年生の時にはキャプテンを任されるなど、精神的にも体力的にもみっちりと鍛えられた充実した学校生活を過ごしました。
ーーー高校卒業と同時に料理の世界に入られたのですね。
満を持して「京都グランドホテル(現リーガロイヤルホテル京都)」に就職し、念願のレストランで働けるようになったものの、「最初はサービスを勉強するように」とフロア係を任されたのですが、この指示に私は納得がいきませんでした。調理師学校出身の同期は、早々にキッチンに立って仕事をしていたからです。「早くキッチンに入りたい、包丁を握りたい」と私はしつこく上司に願い出たところ、「そんなに言うなら」と配属されたのが中華料理店だったんです。
中華料理店のキッチンはとても賑やかで、働いている人たちは皆、体育会系のようなノリでした。頭に血が上るとお玉を投げつけるような料理人も、当時はいましたよ(笑)。私にとっては部活動の延長のような雰囲気だったので、人付き合いにはさほど苦労することもなく、先輩方にはかなり早い段階から可愛がっていただきました。新人とはいえプロ並みに包丁が握れたので、即戦力として重宝がられたのかもしれません。三年程すると、料理長から「お前は京都にいるのはもったいない」と「ホテル日航東京(現ヒルトン東京お台場ホテル)」の中華料理店を紹介していただきました。そこから、活動の場は東京へと移ります。
ーーー新しい職場環境はいかがでしたか?
とにかく驚いたのが、キッチンにすごい数のスタッフが働いていたことです。規模は違えども、京都では8名で店を回していたのに対し、30名近くの料理人が中華料理に携わっていて、そのうち5名程が鍋を振る調理の役を任されていました。この中で「上」に上がっていくには、人の倍は努力しないといけないなと、身が引き締まる思いがしましたね。がむしゃらに働いているうちに主力としてのポジションが確立されていき、気がつくと7年の月日が経っていました。
当時住んでいた神奈川・湘南での暮らしはとても心地が良く、何の不自由も感じることはありませんでした。仕事は順調でしたし、休みにはすぐ近くの海で一日中サーフィンを楽しむなど、プライベートも充実していました。ところが次第に、このぬるま湯に浸かりきった生活に私は危機感を覚え始めました。中華の料理人として10年のキャリアを積んだものの、この先ずっとホテルの一料理人をやっている将来の自分の姿は、全く想像できなかったのです。しかし、すぐに独立して店を持つ準備などは整ってはいません。それに、そもそも私がずっとやりたかったのはフレンチで、フランス料理の店を開くために料理人になったはずでした。手遅れになる前に行動を起こさなければという焦りを感じて、「今しかない!」と中華からフレンチへの方向転換を決めました。思い切って日本を離れてフランスで修業をし、「フランス料理の本場で成功してやる」ぐらいの気概が必要だと、己を奮い立たせたのです。
ホテルのメインダイニングのフランス人シェフに頼み込み、休日や仕事が早く終わった時には、彼の元でフランス料理の研修を受けさせてもらうことにしました。フランス語の勉強のために学校にも通い始め、一年ほどの準備期間を経て、いよいよ憧れのフランスへと旅立ったのです。
ーーーフランスでのお仕事はいかがでしたか?
フランスに着いてすぐ、フランス人シェフに紹介いただいたブルゴーニュ・ボーヌの一ツ星レストランで働き始めましたが、早々に自分の考えの甘さを思い知らされました。仕事に支障のない程度にはフランス語をマスターしたつもりでしたが、ネイティブの喋りは想像以上に早く、料理のオーダーがきちんと聞き取れなかったのです。前菜のポジションを任されましたが、聞き間違いによるミスの連発です。仕事が終わり家に帰ると、ひたすらフランス語を勉強する日々がしばらく続きました。
半年程で他の一ツ星レストランに移り、さらに二ツ星の店で修行をした後で、改めて就労ビザを申請しました。許可が下りるまでの間、一旦日本に帰国したのですが、結局フランスには戻れませんでした。当時、新たに就任したサルコジ大統領が、フランス人の失業率の高さを理由に、外国人の雇用数を削減する施策をとったからでした。
ーーー帰国後はどのような生活を送られていたのですか?
ビザの申請が下りるのを待ちながら、「京都ホテル(現ホテルオークラ京都)」のメインダイニング【ピトレスク】で、ほぼ休みなく働いていました。すぐにフランスに戻るつもりだったのでアルバイトの立場でしたが、キッチンでは店の味を決めるソース作りを任せていただきました。しかし、帰国から一年が過ぎた段階で、ついにフランス行きの道は閉ざされてしまいました。途方に暮れる中、私の耳に飛び込んできたのが、北海道・洞爺湖にある【ミシェル・ブラス トーヤ ジャポン】の米田肇シェフが独立し、大阪に店を開いたというニュースでした。世界の第一線とも言えるポジションで長年腕を振るってきた米田シェフの料理は、私がこれまで口にしたことのない斬新な味わいで、皿の上に全く新しいモダンフレンチの世界が広がっていました。私は、すぐに「働かせてほしい」とお願いし、まだオープンして間もない【HAJIME】のスタッフとして迎えてもらえることになったのです。
米田シェフは、システムエンジニアから料理の世界に入った理数系の頭脳の持ち主です。一つ一つの料理のレシピを細かい計算式で組み上げていく、今までにないタイプの料理人でした。私にはないもの、私が知らないことが【HAJIME】の料理には詰まっていて、一緒に仕事をしているととても楽しかったです。店舗の作り込み方なども勉強させていただきました。
ーーーその後、独立して【MOTOÏ】を開かれたのですね。
京都でダイニングバーをやっていた伊原義男氏と共同経営で、2012年【MOTOÏ】をオープンしました。伊原氏は湘南に住んでいたころのサーフィン仲間の一人です。同じ京都出身ということもあり、「いずれ京都で一緒に店をやりたいね」と顔を合わせる度に夢を語り合っていました。
この辺りは京都御所のすぐ下(南側)で、古くはお屋敷街の地域です。近年は町屋の数が減り、代わってマンションが建ち並ぶようになりました。そのため、地元の人たちは寂しい思いをしています。私は古き良き街並みの雰囲気を大切にしたくて、築110年になる建物の外観は一切触らずに、大正時代の邸宅の趣をそのまま残しました。
ーーー出身地で店を開くことには、やはりこだわりが?
京都を選んだのは、馴染みの土地という理由だけではありません。京都という場所がいかに豊かな食材に恵まれているのか、自分の出生地でありながら、改めて気づかされたからです。フランス帰国後にアルバイトをしていた【ピトレスク】の玉垣雄一郎シェフ(現料理長)は、食材として京都の「地のもの」にこだわっていらっしゃいました。日曜日には私が車の運転をして、大原の朝市に買い出しに出かけたり、一緒に生産者さんの畑を回ったりもしました。京都は適度に田舎で適度に都会。街の中心部から少し足を伸ばせば、すぐに畑が広がっています。しかも、一流の日本料理店が建ち並び、古くから食文化が発達したことから、郊外で栽培される野菜のクオリティーがとても高いんです。
東京で働いていた時や大阪の【HAJIME】では、食材を取引先から取り寄せていましたが、京都でなら直接市場や生産地に足を運び、自分の目で新鮮な食材を吟味できると考えました。春は筍、夏は鱧、秋には松茸を食べて、冬は蕪蒸しが食卓に並ぶ。実家がずっと京都の食と風習を大切にしてきたこともあり、私なら地元の食文化をフレンチの世界で体現できると考えたのです。
ーーー【MOTOÏ】の料理の特徴を教えていただけますか?
店を始めると決めた頃は、京都には伝統的なフランス料理を継承した店が多く、箸で洋食を食すフレンチ懐石店が少しずつ目につき始めていた時期でした。一方、私がやろうと思っていたのは、古き良き京の食文化を反映させたフレンチです。さらに、【HAJIME】のような現代的なフランス料理は東京では増えつつあったものの、京都ではまだ誰もやっていませんでした。京文化が染みついた生粋の京都人がつくる本物のモダンフレンチ…。こうして当店のコンセプトが固まっていきました。
歴史を紐解くと、フランス料理は世界で類を見ないほど変化し続けてきた食文化と言えます。しかし、それはあくまでもフランス人にとってのものであり、日本人はフランス料理を「何となく」でしか捉えられていないように思います。では、私にとってのフランス料理は?というと、やはり父の店にあった料理書の世界観に自分の理想とするフランス料理を重ねています。そして、小学生の時に感動した味が私にとってのフランス料理のおいしさであり、今でもフランス料理の根幹はソースにあると思っています。ソースには、フランス料理にしか出せない旨味が凝縮しています。モダンフレンチが広がりを見せる中で、「ソースをなくす」という流れに向かった時期があったのですが、私はフランス料理の一番大事な部分はソースであるということを信条としています。丁寧にソースを作り込み、味わいを軽くして、現代的な盛り付けを施しながら自分の料理を表現する姿勢を貫いてきました。
ーーー料理をするうえで大切にされていることは?
お客様に喜んでいただくことですね。この「喜んでいただく」には、料理人として二つのスタンスがあると思っています。自身の「表現」を優先しながら、お客様の方から作り手の世界にアジャストしてもらい、喜んでいただくという料理人がいます。一方、私はお客様に喜んでいただくために全力を尽くすことを最優先に考えています。どちらが正解というのはなく、どちらも正解です。お客様がいかに楽しいと思えるか、自分に合った方を選んでいただければと思います。
ーーー前田様の場合は、茶の精神に通ずる「主客一体のおもてなし」ということですね。
主(あるじ)は全力でお客様をもてなし、客は全力で主のもてなしを楽しむ。その二つが合わさった時にできる「和」を、【MOTOÏ】でも創り上げたいという願いを持っています。しかし、こういった考えは、もてなしの場であるレストラン内では一切発信していません。
京都的な考えをお話しさせていただくと、京都では「全て」を説明しようとはしません。例えば、お茶席に飾られた掛け軸や花器、茶を点てるための道具のことを、もてなす側が「これは誰々作の…」など事細かに紹介はしません。分かる人に分かってもらえればいいので、良い品がさりげなく置かれていたりします。もてなされる客は、自分の知識を深めておくことで、もてなしの場をより一層楽しむことができます。主も客も何も言わない、それが粋なんです。旅も同じです。一度訪れた場所であっても、建物や庭の造形の意味や作者の想いなどを文献等で調べてから再訪すると、全く違う見え方になるはずです。知識があればあるほど楽しめる、それが京都の奥深さです。訪れる度に京都の魅力は増していきます。
これらの京都の考えに則り料理の話をすると、やはり過剰な説明は野暮となります。作り手が考えていることを、お客様にはご自身の舌で、料理を通して汲み取っていただきたいのです。以前、NHKのテレビ番組で取材を受けた際、「お客様は神様か」という質問を投げかけられました。私は「お客様はお客様、神様ではないです」と返しました。お客様と料理人はあくまでも対等な立場であり、お金を払う側が偉いわけではありません。どちらも同じ位置にいるからこそ、全力で「楽しもう」とされるお客様に対して、我々料理人は全力でもてなそうとします。お茶の席と同じですね。「主客一体」の考えが根底にあるからこそ、私たちは「もてなす」というところに全力を尽くすのです。
ーーーお取り寄せや海外店舗など様々な事業展開をされている理由は?
「レストラン文化は持続可能か」と考えた時に、私は正直難しいだろうと思っています。少子化による人材不足の問題があり、さらに日本全体が長い間デフレマインドに陥っています。材料費や人件費が高騰する中で、それを価格に転嫁しにくいという現状があります。そこで、別の事業を立ち上げることで、一定の収益を確保しながらレストラン文化を守っていこうという発想が生まれました。
今では、料理人がサービスまで全て行うオープンキッチンの店が増えています。私はレストラン文化を継承することしか考えていません。昔と違い、継承すること自体が挑戦であり難しい時代になってはいますが、クローズのキッチンがあって、フロアはサービス専任のスタッフが取り仕切る。脈々と受け継がれてきたレストラン文化を守り続けながら、【MOTOÏ】はずっと「グランメゾン」であり続けたいと思っています。
海外に店舗を構えたのは、独立を目指すスタッフが自分の実力をアピールし、独り立ちするためのプラットフォームになればと考えたからです。人手が足りない日本国内で新たにレストランを立ち上げるのは、今後ますます困難になっていくことでしょう。であれば活躍の舞台は当然、世界になります。これから料理の世界を担う若者たちが海外で独立開業をすれば、「レストラン文化を守る」ことにも繋がっていくはずです。
ーーー最後に、前田様にとって「おいしい」とは?
「おいしい」を決めるのは、料理の奧に「想い」が込められているかどうかだと思います。作り手の想いが込められた料理には、とてつもないパワーがあり、「おいしい」を超える感動が湧き上がってきます。「おいしい」とされる料理は、世の中にいっぱいあります。私は想いが込められていない料理は嫌いです。お客様に「おいしい」と思ってもらうための想いが見えない料理は、例えば店のまかない料理にしても、作業的に作られたものを私は全く評価しません。
その料理人にしか作れない料理に出逢った瞬間、作り手のこだわりや突き詰めた世界観、一生懸命に大事に作られているのが伝わってくると、受け手である私の感情は押さえが利かなくなって、思わず泣き出してしまいます。これからも真摯に料理と向き合い、想いを込めて、口にすると魂が揺さぶられ、自然と涙が溢れるような料理を私も創造し続けて、お客様に提供していきたいと思います。
過去も、そして未来も、前田元氏は濃密な日常を生きている。学校で自作のフルコースに舌鼓を打つ中学生。修行先のフランスで慣れないフランス語と格闘する若き日本人。そして、レストラン文化の衰退を憂いながら、次世代の料理人のために挑戦を続けるトップシェフ。年齢や置かれた立場は違えども、いずれの前田氏の姿からは、「料理が好きでたまらない」という少年のような心が透けて見える。【MOTOÏ】を訪れる前にはぜひ、今回のインタビューを読み返してもらいたい。店では多くを語らないそうだが、滋味深き食材の味わいの奧に、前田氏の全力を尽くしたもてなしの心を見つけられるはずだ。
取材/AutoReserve Magazine編集部
文/青木玲子
撮影/鈴木雅人
In einem umgebauten Einzelhaus, das einst ein Kimono-Geschäft aus der Taisho-Zeit war, können Sie kreative Gerichte genießen, die japanische und französische Küche vereinen. Die Zutaten werden selbst aus Niigata und dem Kamo-Fluss beschafft, um Ihnen eine gastronomische Zeit zu bieten, die das heutige Kyoto widerspiegelt. Bei jedem Besuch gibt es neue Entdeckungen, und es ist ein Ort, an dem Sie besondere Momente verbringen können.