ーーー料理人を志したきっかけは?
小学生の頃に、姉の作る焼きたてのクッキーと市販のクッキーの違いに衝撃を受け、作ることに興味を持ちました。幼い頃から私も母のそばで料理の手伝いをしていたこともあり、小学生の頃には料理人になることが夢となっていました。料理人になることしか興味がないくらいで、それ以外の選択肢はありませんでしたね。料理を学び、作ることがとにかく面白くて、どんどん興味が湧いてくる感覚は今でも変わらないです。
フランス料理に興味を持ったのは、見た目の美しさに惹かれたことがきっかけでした。ソースや出汁(ブイヨンやフォン)の作り方、フランス料理の歴史などを知るうちに、フランス料理の芸術性や繊細さの追求に興味を搔き立てられるようになりました。調度品や使用しているカトラリーなども、フランスに毎年行くのでアンティークを探してきたり、美的な部分も勉強しています。
ーーー修業時代の印象的なエピソードはありますか?
私は「株式会社ひらまつ」に入り、本店の【レストランひらまつ 広尾】で働き始めました。当時のレストランの世界は男社会的な一面もあったので、女性スタッフは大半が辞めていくような厳しい環境でした。早朝から深夜まで働くこともあり、仕事は大変でしたが、一つずつ仕事が身についていくことが私には楽しかったんです。直属の上司がどんどん挑戦させてくれる方でしたので、果敢に挑むことのできる仕事も増えていきました。営業中は、経済界の方や外国の王族の方をお相手することもあり、一切失敗が許されないピリピリと張り詰めた空気感の中で過ごしていましたが、提供される料理が光り輝いているように感じることがありました。料理人のプロとしての仕事のスタンスというか、感覚を知れたのはすごく良かったと思っています。
そして、入社から五年ほどが経ち、パリ支店へ転勤が決まりました。社長からは、「家賃も光熱費も会社が持つから、給料は全て食べること、飲むことだけに使いなさい」と言われ、フランス中の様々なお店を巡りました。フランスには電波も届かないようなお店が結構あるのですが、訪れた一軒のレストランでは、店外の机にシャンパンとおつまみが出てきて、一緒に行ったスタッフとただ喋って一時間ほどのんびり過ごす、なんてこともあって(笑)。ですが、その穏やかな時間が本当に豊かだなと感じたんです。この経験を経て、自分がいつかお店をやるのなら、「環境」も味や体験の一部として、何物にも代えがたい時間が過ごせる場所でやってみたいと思うようになりました。
ーーー独立するきっかけは何だったんでしょうか?
帰国後は本店に一年ほど戻りましたが、急遽支店の料理長になるよう頼まれて、数日後には料理長になったんです。あまりお客様が来ないお店で、このままだと若いスタッフが勉強することができないと思い、何とかお客様が来店してもらえるようにと頑張っていたのですが、問題も山積みで心が折れそうになっていた時に、常連のお客様が「これだけおいしいものを作っていれば大丈夫、必ずお客さんは来るようになるから」と言ってくださり、それを心の支えに何とか奮闘し、一年くらいで満席になるようになりました。ただ、料理長ともなれば、料理が作れるだけではダメで、スタッフの育成はもちろん、店舗経営のことも考えなければならない立場になったことがストレスでもありました。私は料理長というポジションよりも、プレイヤーとして料理を作って研究し続けていたい気持ちの方が強かったんです。その時期、年齢的にも女性としての人生を考えることもあり、料理人を辞めるか悩む時期がありました。
今後の人生を考え、一旦辞める選択肢もあると考えていた時、震災が起こりました。自分も何か人のためにしなければと思いながら何もできず…そうした中で日常に戻っていく世界が自分の中でモヤモヤしていた時に、先ほどもお話した常連のお客様が団体客を入れたいと申し出てくださったんです。お話をお受けしたところ、団体のお客様は皆さん津波の被害に会われた方たちでした。
悲しみを抱えられているお客様を前に、スタッフたちもどう接すればいいか戸惑う中で、私もどうしていいか分からなかったのですが、とりあえず「今私たちができることは、全力で料理を出して全力でサービスすることしかない」と伝えました。その後、仕事が一段落ついたタイミングでお客様の様子を見に行くと、泣きながらご飯を食べていた皆さんがすごく楽しそうに笑顔で過ごされていたんです。その光景を見た時に、自分の涙が止まらなくなり、「もし自分が死ぬとき、全てを料理の世界に、人生を使ったとしても後悔しない」と感じ、料理人として続けていくことを改めて決意しました。
ーーー大変な時期を乗り越えて料理人を続けていく覚悟が決まったわけですね!
ですが、会社規模が大きくなるにつれ、経営の比重も増え、だんだんと無理がたたり、私は身体を壊してしまいました。店の経営が危ぶまれる出来事が起きるなど問題も重なっていた頃、パチッと何かが切れたように何もできなくなってしまったんです。色々なことが重なり、このままでは料理が作れないと感じ、社長にお願いして退職しました。その後は本当に一切料理ができなくなってしまい、何も手が付けられずに一年ほど引きこもる状態が続いていました。
そんな折、母に強く押し切られる形でこの土地を買うことになったんです。心身ともに疲弊しきっていた当時の私を見た母なりの背中の押し方だったのでしょうね(笑)。借金を背負った状況の中で「やらないわけにはいかない」と、少しずつ準備を進め、どこかでアルバイトしながら土日だけでもお客様が来ればいいなぐらいの気持ちで始めたんです。
ーーーレストランを開業されてみてどうでしたか?
私の当初の見立てでは、主に都会のお客様が多いかなと予想していたのですが、最初から地元の方たちがたくさん来てくださいました。フランス料理というと少し身構えるイメージもあったと思うのですが、フランスで色々なレストランを見て、最高のサービスは「ストレスを与えないこと」だと思い、優しくあたたかな感じのサービスを心掛けていたので、気軽に来店しやすかったのだと思います。この辺りにはフランス料理のお店がないこともあって、開業から半年ほど経つ頃には一年先まで予約が埋まるようになり、私自身もすごく驚きました。宣伝に奔走することもなく、口コミで広げていただけてありがたいです。
ーーー食材へのこだわりはありますか?
出汁に使う素材から気を使っています。フランス料理は鶏や牛で出汁を取ることが多いのですが、ある日、深夜に出汁を煮出していた時に薬の匂いがしたんです。「なにか入れたかな?」と思ったら、素材の鶏自体に抗生剤が投与されていたことに気が付きました。この土地の綺麗な水や澄んだ空気の中で、そうした化学的な匂いまで分かるようになってきたんです。何度やってもその嫌な匂いがしてしまうので、これではソースが作れないと頭を悩ませていた時に、猟師さんのお誘いで鹿を見せていただくことになりました。実際に鹿肉を食べさせてもらうと、鹿肉独特の臭みが全くないことに驚いたんです。そして、狩猟した際に余る骨の処分にはお金を支払っているという話を聞き、骨を譲り受けることになりました。いざ骨で出汁を取ってみると、最初からコンソメのような滋味深い味わいが出ていて再び驚かされたんです。今では全て鹿で出汁を取っています。自然のものはこんなにも綺麗なんだなと実感しましたね。
この土地に来てから不思議に感じることは他にもあります。例えば、同じワインでも東京や名古屋で試飲した時に感じた味わいと、持ち帰って飲んでみた時とでは、味の感じ方が全く違うんです。標高1000メートルの空気も水も綺麗な環境下では、嗅覚や味覚にも変化が生まれて、雑味はより際立って感じるのかもしれません。なので、当店では基本的にワインもナチュラル系のものを選んでいます。
ーーー料理を作るうえで大切にされていることはありますか?
私は「基本」に忠実な料理が好きなんです。【レストランひらまつ 広尾】の料理もクラシカルなものでしたし、「教科書にある料理をいかにおいしくするか」に注力しています。フランス料理に欠かせないソースや出汁は下準備に何日も手間がかかるような作業ですが、それが楽しいんです。
また、ソースにはバターを使わないようにしています。私自身、胃が弱くて胃もたれが嫌なので。フランス料理では「バターモンテ」と言い、仕上げにバターを加えることがあるのですが、私はしません。料理にコクを出したい場合には、油脂分を別のもので表現しています。当店へ来てくださる方の中には持病をお持ちの方やお年寄りのお客様も多いですが、「次の日は調子が良い!」という声をよくいただきます。
ーーーおいしいだけでなく「優しさ」も伊藤様のお料理から感じることができます。
元々レストランの語源は「回復させる/元気にさせる」といった癒しの意味合いからなるのですが、私は自分の料理を食べて欲しいというこだわりはあまりないんです。それよりも皆さんが元気になって帰れるような、本来の意味のレストランを作りたいと思っています。店名の【Une Fleur】は「一つの花」という意味なのですが、人にはそれぞれに事情があって、調子が落ちたりする時だってありますよね。そんな時に心の休まる場所でご飯を食べて元気になって、再び自分にとっての花を探してもらえるように、との想いでつけた名前です。食事って大切だと思うので。私は「料理」を通じて、誰かのためにできることをしていたいんです。それが幸せだなと思っています。
ーーー伊藤様にとってフランス料理とは?
幸せな時間を提供できるものでしょうか。非日常の空間の中、お家ではできないような料理で、お客様が笑顔になる時間を提供すること、これが私の理想とするフランス料理だと思っています。当店がお客様から「おいしい」と言ってもらえているのは、大事な人と来てくださるからだと思います。最初は会社の集まりなどがきっかけで来店される方たちも、最終的にはご家族や本当に仲の良い関係性の方としか来なくなるんです。そうなってくると、当店を「久しぶりに集まる場」として使っていただくことも多いので嬉しいですね。皆さん心からリラックスしてお食事を楽しまれるようになり、そこには幸せな笑顔が溢れています。温かさや優しさを提供し続ける場であり続けることを大切にしたいですね。
ーーーご利用いただくお客様は一日一組に限定されているんでしょうか?
基本的にはそうで、2名様から15名様ほどでお受けしています、たまに1名様の時もありますが。人数が多い時にはお客様にお手伝いしていただくこともあります(笑)。
ありがたいことに、何度か当店に来られるうちに、お客様が「ただいま」と言ってくださるようにもなりました(笑)。また、そうした方は宿泊もされるパターンが多いですね。遠方の方だけでなく、地元の方が宿泊されることもあり、お出かけした気持ちになれるみたいです。
ーーー宿泊所を併設しようと思ったきっかけを教えてください。
元々理想の形として10年後くらいに実現できればと考えはしていたのですが、次第に遠方からの来客も増え、食事代より高いタクシー代を払ってでも来てくださる方や、グループでお越しの場合も、運転手として一人は飲めない方がいたりと、かわいそうだなと思うことが多くなりました。
フランス修行時代に訪れたレストランも、宿泊施設が併設されているオーベルジュがほとんどだったので、後でまた悩むようなことになるのなら今やっておいた方がいいと、これも機会と捉えてオーベルジュを建てることにしました。今ではたくさんのお客様にご利用いただくようになりました。私もお客様が宿泊込みだと安心するんです。遠方からお疲れの状態で帰宅されるのは道中心配ですが、宿泊ならば「おやすみなさい」で済むので(笑)。
近くには温泉もあるので、チェックインされた後はお食事の時間まで思い思いに過ごしていらっしゃいますが、皆さん楽しそうにされていて嬉しいですね。「お食事の際は一番おいしく楽しめる格好で来てください」と伝えると、リピーターのお客様はパジャマみたいな恰好で来られるようになります(笑)。
ーーー今度の展望についてお考えはありますか?
カフェやブラッスリーのようなスタイルで、「休憩」を目的とした癒される場所を作りたいと考えています。大衆的なにぎわっているお店というよりは、訪れた方が心穏やかになれる落ち着いた店をやりたいと思っています。毎年フランスを訪れる際に感じるのは、食材一つ一つを大切にする姿勢だったり、糖尿病患者向けのパンを教えてくれたりと、身体を大事にされている人たちがすごく多いということ。様々なカフェを見に行きながら、どのようにすればお客様が穏やかに過ごせるか、食事のスタイルだったり色々と構想を練っています。
地元食材を使用して、冷え性の方にはこのお茶が良いとか、このメニューは消化に良いなどのご提案をしていきながら、本当に身体に良いものを提供できる環境を作りたいです。
ーーー最後に、伊藤様にとって「おいしい」とは?
お客様を見ていて感じるのは、「おいしい」という感覚は一緒に食べる人によっても変わるということ。緊張する環境のレストランで上司とご飯を食べる時と、同じものをお家で食べるのとでは感じる味わいが違うはずです。私は、相手より先に食べ終わらないようにとか、色々と気を揉みながら食べるよりかは、楽しく穏やかな環境で味わって欲しいんです。また、もしもシェフである私の印象が悪かったら、「おいしくない」と感じさせてしまう要因にも繋がると思うので、気を付けてはいるつもりです。
東京で料理長を務めていた時代は、オープンキッチンではなかったため、料理を出し終えてからしかお客様の元へ行けないのが嫌でした。「この料理の調理法はここが面白くてね、この食材はとても楽しいんですよ」とか説明しながら料理を出して、お客様の反応があって、という双方の「コミュニケーション」がある方がおいしく食べられると思うんです。初めて来店されたお客様の中には稀に、表情に期待していない感じが出ているんですけど、お食事が進むにつれて、その方の表情がだんだんと明るいものに変わってくるのも嬉しい瞬間です。これからもフランス料理人として、一人でも多くの方に「幸せな時間」が届けられるように、日々過ごしていきたいですね。
料理で笑顔にさせることはもちろんだが、ゆったりとした時間の中で心身を癒し、元気を取り戻す場所として「レストラン」本来の姿を表現している【Une Fleur】。楽しく過ごし、元気になって帰ってもらえる場所であり続けたいと語る伊藤氏にとって、お客様と笑顔を交わせることは何よりの喜びなのだろう。インタビュー中も終始笑顔に溢れ、我々も元気をもらうことができた。時には日々の忙しさを忘れ、伊藤氏の温かいもてなしに触れながら、心を癒す体験を味わってみてほしい。きっと帰路は幸せな気持ちに満ちているはずだ。
取材・文/AutoReserve Magazine編集部
撮影/鈴木雅人
Une Fleur is a restaurant where you can enjoy the finest French cuisine along with the warm personality of the chef. All dishes are handmade, showcasing meticulous craftsmanship. The beautifully presented dishes resemble works of art, offering a symphony that stimulates all senses. Each visit will fill your heart with a wonderful moment to cherish.